手作りカヌーと乙女の湯
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![]() 麦わらで作られた流れ餓鬼 |
![]() 燃える流れ餓鬼 |
情報提供:市民の力わかやま
「乙女の湯」に隣接して「とみさと交流館」があります。
ここでは地元の皆さんによる各種の展示が行われ交流の場となっています。日曜には地元の物産を販売する「乙女の市」が午前10時から開催されます。新鮮な取り立ての野菜はもちろんのこと、ヨモギの切り餅や金山寺味噌なども人気です。すぐに売り切れますので、お早めにお越しください! 特に第2日曜日には「おかいさん(茶がゆ)」が振る舞われるそうです。(2010.9.21)
![]() 乙女の市の様子 |
![]() 地元の物産の色々 |
情報提供:市民の力わかやま
「乙女の湯」の近くに日置川を挟んで対岸に「とみさと木楽館カヌー工房」があります。
全国的に見ても、カヌーの製作工房は少なく注目されています。
工房内には、製作開始まもないものから、ほぼ完成間近のものまで、7〜8艇が整然と並べられていました。
ここでは紀州材を使ったウッドカヌーを、素材の手配から完成までインストラクターの指導の下に初心者でも安心して製作することが出来ます。費用は材料費が10万円で工房使用料を入れても14〜15万円程度。製作に要する時間は延べ25〜30日程度ですが、これは各人のペースに合わせて計画できます。泊まり込んで短期に完成させる方もいれば、時間をかけて製作そのものを楽しむ方もいます。現在4〜5艇が製作にかかっていますが、その中には九州からの遠来組もいます。
基本はオープンデッキの2人乗りの「カヌー」ですが、中にはクローズデッキの「カヤック」を製作したり、市販のキットを製作する方もいます。
また、完成後は合川のダム湖に面した「カヌーポート」の艇庫で保管してくれます。
(2010.9.13)
整然と並べられた製作途上のカヌー |
カヌー製作風景 |
情報提供:市民の力わかやま
「乙女の湯」から北へ約3Km、旧大塔村の平瀬地区に、「田辺市立大塔歴史民族資料館」があります。この地域では山林業を主体にした生活を営んできました。過去に使われていた様々な山仕事の道具類を中心に、今では見かけなくなった農具、民具類も豊富に展示されています。動物の剥製等もありますが、たまたま保管されていた動物の頭蓋骨を調査に出したところ、大変珍しいニホンオオカミのものと分かり話題になりました。(現在はレプリカが展示されています。)
入場は無料です。普段閉館していますが、大塔村公民館(TEL0739-48-0212)に連絡して予約するか、近くの村の人に声をかければすぐ開けてくれます。
また、ここから見る半作嶺は「乙女の寝顔」としてよく知られた展望ポイントです。(2010.8.23)
田辺市立大塔歴史民俗資料館 |
様々な道具類とニホンオオカミの 頭蓋骨のレプリカの展示 |
情報提供:市民の力わかやま
赤滑の漣痕のすぐ左手には、「剱・宮跡」バス亭と「熊野剣宮跡」の案内板があります。
県道219号から左の川沿いの道に入り500m程進むと、川の対岸に「剱の宮跡」があります。石碑と案内板が立ち、さらに鳥居の先には小さな祠がお祀りされています。
建武元年(1334年)十月、大塔宮盛良親王は足利尊氏の企てにより、鎌倉に幽閉されました。この時、宮の側近たちも次々と捉えられましたが、竹原兵庫の守と平賀三郎の両人は巧みにこの地に逃れてきました。建武二年七月には敵の手により宮が無残な最後を遂げられ、それを伝え聞いた平賀三郎は仏門に入り、宮の菩提をとむらい、竹原兵庫の守は宮より拝領の剱を「熊野剱宮」としてお祀りするようになったのが、起源とされています。
明治40年に鮎川の住吉神社に合祀されました。
現在は神社跡になったとはいえ境内は綺麗に整備され、いまでも祠にはミニチュアの剱がお祀りされ、大塔宮をお慕いする小川の人々の気持ちが伝わってきます。(2010.8.19)
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情報提供:市民の力わかやま
田辺市鮎川小川の県道219号沿いに、「餅つかぬ里」のいわれを示す案内板と大塔宮がこの地に滞在されたことの証としての「大塔宮御駐蹟」の碑が立っています。小川地区では昭和10年まで、何と600年もの間、正月に餅をつかないというしきたりを守ってきたそうです。旧大塔村の名前の由来にもなっている大塔宮とは、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう/もりよししんのう)を指しています。
1331年、後醍醐天皇が立てた鎌倉幕府倒幕計画が事前に発覚し、首謀者が捕らえられて、後醍醐天皇は隠岐に流されます(元弘の変)。一方、大塔宮はわずかな側近と共に熊野へ逃れてきます。熊野詣での山伏の一行に姿を変え、この小川に食料を求めて入ってきたのは翌年の正月、村人はすでに餅をついていたにも関わらず、宮様とは知らずに、餅を差し出すものは誰もありませんでした。後に、それが大塔宮の一行であったこと知り、非礼をひどく恥じて、それ以来正月に餅をつかなかったと言います。
このしきたりは、昭和10年に、大覚寺で大塔宮の600年御遠忌法要が営まれた際に、村人の代表が、神前に餅を捧げて許しを請い、それからは正月に餅をつくようになりました。(2010.8.3)
餅つかぬ里の案内板 |
大塔宮御駐蹟 |
情報提供:市民の力わかやま
県道219号を「餅つかぬ里」の小川地区を過ぎてから「乙女の湯」方面へ少し行くと、右手に幅50m高さ30mに渡って赤い岩肌が露出している「赤滑の漣痕」が見えてきます。
漣痕とは、浅い海の底に出来た砂紋が、そのまま地層の間にはさまって堆積したものを言い、赤滑の場合は4〜5000万年以前(新生代第三紀)に形成された粗い頁岩の地層です。かつては海面下だった地層が、やがて隆起して陸になったということで、熊野の大きな地殻変動の歴史を示す貴重な資料です。和歌山県指定の天然記念物に登録されています。
ここを過ぎると、川沿いの平坦な道から「水呑トンネル」まで続く峠越えの上り坂になります。(2010.7.29)
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情報提供:市民の力わかやま
富里温泉付近より遠く半作嶺(はんさみね)を望むと、山の稜線が「乙女の寝顔」のように見えます。「乙女の湯」は、これにちなんで名づけられました。
その寝顔を目指して安川渓谷の入り口の大垣内より熊谷を登り、名水「乙女のしずく」の汲み場を過ぎるとすぐに安川渓谷を見下ろせる所に出ます。正面に嶽山(だけやま)、左の谷筋が和田川(奥は果無(はてなし)山脈)、右の谷筋が安川渓谷です。右側(真東方向)のヤマ筋は三ツ森山(みつもりやま)〜百間山(ひゃっけんざん)〜法師山(ほうしざん)と連なります。なんと仰々しい名前が揃っていると思われませんか? ほんの少し前には車などなかったから、全て足で歩いたわけですね。材木は筏を組んで川を流したそうですが、筆者にはそれらの大変さは想像も出来ません。
さらに少し先へ進むとその半作嶺の下にトンネルがあり熊野(ゆや)へ通じますが、手前で車を止めて嶺筋へ向かうと半作峠から半作嶺へ通じ、西に田辺湾が望めるようです。(2006.4.21)
![]() 富里温泉付近より望む半作嶺 一番奥の山が左から見た寝顔に見えます。 |
![]() 半作嶺からの展望 |
情報提供:つれもてネット南紀熊野
春の桜が見事な、このキャンプ場に「長〜い吊り橋」が架かっています。スリル満点のこの吊り橋、一度肝試しにいかがですか?(かなり怖いです)(2006.3.31)
情報提供:花つぼみ
紀州の伝統産業の紀州松煙墨(しょうえんぼく)と紀州備長炭(びんちょうたん)の工房があります。
昔から、紀州の山の民の現金収入源であった松煙と備長炭を今でも造っている工房です。お互いに別の工房ですが、近くにあり両方を見学できます。昔に思いをはせて紀州の民の生活を想像するのも、楽しいです。ただし、仕事が厳しく、物見遊山で行っても、迷惑なだけで相手にされませんので前もって連絡をしてください。
体験教室をしているので、興味のある人はこれに参加するのが一番です。(2006.3.31)
情報提供:つれもてネット南紀熊野
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