海辺の熊野古道(岩代・千里)
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![]() 西岩代八幡神社 |
![]() 回り舞台の構造 |
情報提供:市民の力わかやま
小津目公園内には、たくさんの小石が集まって出来た様な、不思議な石が置かれています。
この石は、国歌「君が代」にも歌われている「さざれ石」です。
万葉集や古今和歌集にも記され、「玉に次ぐ美石」などと称された「さざれ石」は、約700〜800万年前に堆積した「目津礫層(めづれきそう)」が崩れた石と伝えられています。(2013.4.14)
![]() さざれ石 |
![]() さざれ石説明板 |
情報提供:花つぼみ
みなべ町の千里の浜の隣、小目津浜に面した、芝生がきれいに敷き詰められた広さ約7,500平方メートルの公園です。回りを桜や黒松など、木々の緑で囲われた別天地のようなこの公園は、大人も楽しめる憩いの場としても、人気があります。
園内にはすべり台をはじめ、大型遊具がいくつもあり、子ども達の楽しい遊び場になっています。
公園の前の小目津浜は、きれいな砂浜で、アカウミガメが産卵に訪れます。(2013.4.10)
![]() 小目津公園の周囲 |
![]() 小目津浜 |
情報提供:花つぼみ
岬の突端、三方を海に囲まれて建っている国民宿舎「紀州寺みなべ」の敷地内、和歌山県朝日・夕日100選の碑のそばに「万葉の歌碑」が建っています。
みなべの浦 潮な満ちそね 鹿島なる
釣りする海人を 見て帰りこむ
大宝元年(701)冬10月、文武天皇と持統上皇が紀の湯に旅行された時に詠まれた13首の万葉歌(作者不詳)の一首です。この歌碑は昭和46年(1971)建立されたもので、揮毫は中川長三郎です。(2011.4.20)
情報提供:市民の力わかやま
鹿島は国民宿舎「紀州路みなべ」から約0.6kmの海上にある無人島で、周囲約1.5km、面積約2.6ha、最高標高は27mです。南島の南端には、万葉時代より鹿島神社(祭神タケミカヅチノ神)が鎮座しています。この神が降臨した時に坐られたという要石のお蔭で、古来より地震・津波の被害が軽微であったといわれています。(2011.4.14)
情報提供:市民の力わかやま
安養寺は寛和年中(985〜986)に恵心(源信)僧都が熊野巡錫の途次建立したという当地では最も古い寺院です。当寺境内には十三仏信仰(初7日〜33回忌)に基づいて建立された日本最古の板碑と考えられる文永10年(1273)の坂碑をはじめ、安阿弥(快慶)の作と伝えられる鎌倉時代の阿弥陀三尊、恵心(源信)僧都自作の像と伝えられてる黒仏(僧形像)、そして正平10年(1355)の五輪塔、さらに室町時代の宝筺印塔などがあります。(2011.4.1)
情報提供:市民の力わかやま
芳養(はや)大神社の鳥居を出て田辺に向かって5分ほど歩くと、地元の人々から「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれている「一里塚」に到着します。一里塚とは、一里(約4km)毎に街道両側に土を盛り上げて植栽などをほどこし、道のりの目安のした江戸時代の塚のことです。エノキの大木が聳えるその下に地蔵堂が作られています。(2011.3.28)
情報提供:市民の力わかやま
JR芳養駅を出て右手近く、松原の集落の中にある西山浄土宗の寺院で、3宗5派の寺院24ヶ寺が集まってつくられた「ボケよけ24霊場」の一つです。弘法大師腰掛の岩や本堂の前に立つ白衣観音、鐘楼などが見られます。中でも注目は、境内いっぱいに広がった樹齢400年といわれる立派なビャクシン(庭園木としてよく用いられるイブキの一種)の老大木です。この他に、第5長福丸殉難の碑もあります。(2011.3.26)
ビャクシンの大木 |
白衣観音 |
弘法大師の腰掛岩 |
情報提供:市民の力わかやま
南部町漁業組合のある堺漁港の少し田辺側にいったところにある大屋海岸に横たわっている2個の丸い巨石で、田辺から日高川町の道成寺までの道筋に数々みられる「清姫伝説」の史跡の一つです。逃げる安珍を追いかけていた清姫がこの岩で袖をすったと言い伝えられており、「清姫の袖摺岩」と呼ばれています。(2011.3.24)
情報提供:市民の力わかやま
「鹿島神社」はJRみなべ駅から南に歩いて10分のところにあり、奈良時代以前に茨城県の鹿島神宮から勧請(かんじょう)されたと伝えられている古い歴史をもった神社です。701年(大宝元年)、文武天皇(もんむてんのう)が旅行した際に、お伴の者が歌を詠んだことが万葉集に記されています。
「三名部(みなべ)の浦 塩な満そね 鹿島なる 釣する海人(あま)を 見てかへりこむ」
また、1707年(宝永4年)、1853年(嘉永7年)の二度の大地震がありました。この時、大津波が打ち寄せて来ましたが、南部湾にある鹿島から怪火が現れ、津波の波が東西に分かれたといわれています。 海岸の住民らは 「鹿島が被害を最小限に抑えてくれた」 と鹿島の大明神への感謝の気持ちを込めて毎年「花火祭」を行っています。(2009.9.19)
鹿島神社の鳥居 |
鹿島神社の社殿 |
情報提供:市民の力わかやま
三鍋王子を後に、古道を海沿いに歩いていきます。芳養川を渡ると川口に近い右手の丘にこんもりと森に囲まれたところがみえ、そこが芳養王子です。藤原定家の熊野御幸記(ごこうき)には「早王子」「ハヤ王子」と記されています。
芳養王子跡になっている大神社は、別に「寄言の宮(よりことのみや)」とも呼ばれています。往古氏の翁が神のお告げによって、海より流れついた両面の神鏡を見つけました。そして、この漂着した神鏡を天照大神として祀りました。神のお告げによって祀られたので、「寄言の宮」と呼ばれ現在に至っているのです。
芳養王子を過ぎて、昔ながらの漁師町の雰囲気が残っている海岸を行くとすぐ田辺で、潮垢離浜で身を清め、いよいよ海岸から離れ、中辺路街道へと進んでいくことになります。(2007.10.8)
![]() 芳養大神社 |
![]() 芳養王子跡 |
情報提供:市民の力わかやま
熊野古道は、千里王子から北東の千里谷を通り、南部峠に続きます。JRきのくに線を越えると国道に出、南部川を渡って北に行くと、丹河地蔵堂(銀杏の大木がある)があり、三鍋(みなべ)王子に着きます。ここから南部駅までは20分ほどです。
三鍋王子社は、明治10年に埴田の須賀神社に合祀、明治42年には、さらに鹿島神社が合祀、社名は「鹿島神社」となりました。従って、旧三鍋王子社の社殿は現在、鹿島神社の本殿として伝わっています。三鍋王子の境内には、喉の渇きを覚えた小栗判官が飲んだ井戸水とされる「小栗井戸」の井桁だけが保存されています。(2007.9.28)
![]() 三鍋王子跡 |
![]() 三鍋王子碑 |
情報提供:市民の力わかやま
国道42号線からJR岩代駅への標識に従って少し歩きます。JR岩代駅前の小道を右に行くと踏切があって、その踏切を越えた海岸に岩代王子の跡地があります。この岩代王子は、大巳貴命(大国主命)すなわち熊野飛龍権現を主神とした神社でした。新古今和歌集に「いわしろの神はしるらむしるべせよ頼む憂世の夢の行末」と詠まれていて、和歌や名前を奉納する社であったと言われています。そして、明治41年神社合祀の際には、移祀に関係した人たちが皆病に見舞われたので、ご神体を旧社に戻し合祀をまぬがれた王子だという話が伝わっています。
また、この岩代王子からは、熊野灘の大海原を前に千里王子に続く美しい砂浜を望むことが出来ます。古の熊野詣人には最高のプレゼントであったことでしょう。(2007.9.24)
情報提供:市民の力わかやま
国道42号は、大部分が紀伊半島の海岸線に沿って走っています。南部町内に入り、みなべICからの国道424号との合流地点から少し南下すると、右手、防波堤沿いにやしの木がず〜っと並んでいます。このあたりまで来ると日差しもなんだか強く感じられ、南国ムード満点です。(2006.8.18)
情報提供:わかやまインターネット市民塾
国道42号から海岸の方へと道を進むと沿道は千里梅林。桃に似た甘〜い香りがあたりに漂っています。梅の木の下には収穫しやすいように青いネットが張られています。ここに落ちてきた完熟の梅を短い虫取り網のような道具ですくっていきます。(2006.6.21)
![]() 木で完熟になった梅 |
![]() 梅、収穫中。 |
情報提供:わかやまインターネット市民塾
国道42号線にある南部ロイヤルホテルの大きな案内板を海岸側に入ってすぐ、海岸に最も近い丘陵に千里梅林が広がります。その中を進むと、左に行けば紀州みなべ千里浜温泉、右に行けば海岸に下りる道があって、千里観音・千里王子に至ります。(2006.3.31)
![]() 千里観音 |
![]() 千里王子 |
情報提供:わかやまインターネット市民塾
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