くじらの町太地とくじらの博物館くじらの町太地
くじらの博物館
太地くじら浜公園
関連リンク(別ウィンドウで開きます)
|
![]() 梶取埼灯台のてっぺんには・・・ |
![]() 風見鯨がいます! |
情報提供:市民の力わかやま
お盆の8月14日、太地町では鯨踊りや盆供養花火大会などが開かれます。さて、太地と言えば鯨、お土産と言えば、鯨とてつめん餅です。鯨は観光物産店でも売っていますが、地元の人々に利用されている漁協スーパーがお買い得です。クジラと鮮魚は、目の前にある魚市場に水揚げされる「とれたて」の物が安く販売されています。ここで販売しているクジラの肉は、南氷洋の調査捕鯨や追い込み漁で獲ったもので、真空パックや冷凍で販売されています。「さえずり」と呼ばれるクジラの舌の肉、クジラの骨に付いているスジ肉、内臓をボイルしたものなど地元ならではの珍しいものもあります。インターネットからでも注文できます。
また、てつめん餅は、知る人ぞ知る太地名物で、白とヨモギの2種類があり、中のこしあんはあっさりとした甘さで、できたてのお餅の柔らかさは格別です。その日のうちに食べるのがおすすめで、売り切れると店じまいになります。(2007.8.14)
![]() ずらりと並んだ鯨製品 |
![]() ビックリするほど柔らかいてつめん餅 |
情報提供:市民の力わかやま
梶取崎から遊歩道もつながっている平見台園地には、500本の桜が植えられ、太地町一の桜の名所です。平見台園地にある継子投(ままこなげ)は、串本大島から浦神湾、太地の海岸線が一望できる岬です。継子投の名前の由来は、その昔、継母が幼いあかんぼうを断崖絶壁のこの場所から投げ落としたという伝説が残っているからです。しかし、目の前には、そんな悲しい伝説も忘れるほどの絶景がひろがります。水平線の両端は丸みを帯び、地球は丸いと感じられます。そして夜には満天の星を見ることができます。(2007.8.10)
![]() 平見台園地からの眺望 |
![]() 継子投 |
情報提供:市民の力わかやま
石垣氏は、太地の船大工の子として明治26年(1893年)に太地で生まれ、明治42年(1909年)渡米しました。美術学校で絵画を学び、多くの優れた作品を残した後、昭和26年(1951年)に帰国し、昭和33年(1958年)死去されました。移民としてアメリカに渡った彼の作品は、当時の社会情勢を色濃く反映したものが多く、見る者を強く魅了します。 この記念館は、彼の没後、綾子夫人によって建てられた記念館です。太地が生んだヒューマンな画家・石垣栄太郎の作品を常設。石垣氏の油彩をはじめデッサンや愛用の品々が展示されています。評論家として知られた夫人の著書も展示、販売しています。(2007.7.25)
情報提供:市民の力わかやま
漁港の隣にある「太地の氏神」で、豫母津事解男命(よもつことさがおのみこと)をお祀りしています。昔から「宮様」と呼ばれ、地域の人に親しまれてきました。
平清盛の孫、平維盛(たいらのこれもり)が那智勝浦町の沖にある山成島(やまなりじま)から太地の水ノ浦に渡る途中、太刀(たち)を落としたと伝えられていました。後に維盛のものではないかと見られる太刀がエビ網にかかり、この神社に奉納され宝物(ほうもつ)として保管されています。毎年1月13日に航海の安全や大漁を願う「お弓神事(おゆみしんじ)」が行われます。毎年10月の例大祭には、神事の他、勇壮な樽御輿(たるみこし)の渡御(とぎょ)、獅子舞の奉納があります。(2007.7.12)
情報提供:市民の力わかやま
戦国の世が終わって平和な時代になり、熊野水軍は戦争に行くこともなくなりました。そこで新規開拓事業のひとつとして乗り出したのが捕鯨でした。
鎌倉時代からこの地方の名族として知られた和田頼元(わだよりもと)は、慶長11年(1606年)、熊野水軍の戦闘技術に基づいて組織的な捕鯨法を開発しました。手こぎの小舟、数隻でチームを組み、クジラを取り囲み湾に追い込んでモリを打つ漁法(ぎょほう)です。そして「刺手組(さしでぐみ)」と呼ぶこの捕鯨集団と、クジラを見張り狼煙を上げて合図をする山番などを含め、組織的な捕鯨業をはじめました。
頼元の次男角右衛門(かくえもん)は、幕府より「太地」の姓をいただき、それが地名の由来となったともいわれています。この捕鯨の祖となった和田頼元とその一族の墓群が順心寺にあります。(2007.5.7)
情報提供:市民の力わかやま
燈明崎の燈明台は、寛永13年(1637年)に日本で初めて建造された、毎晩、常に明かりを灯した灯台です。
太地のクジラ漁が盛んになるにつれ、クジラの肉を求めて来る船舶や、荷物を運ぶ廻船などの海上交通も頻繁になってきました。そこで夜間も安全に航行できるように、一晩中灯りの灯っている燈明台が必要となってきました。それには大量の油が必要です。クジラの捕獲量が多く、クジラの油が豊富にとれた太地だからできたことです。灯台守(とうだいもり)は格式があり、新宮藩士が任命されていました。この岬は、牟漏崎(むろざき)と呼ばれていましたが、燈明台ができてからは、燈明崎と呼ばれるようになりました。(2007.5.3)
情報提供:市民の力わかやま
太地港の漁協近くにある恵比寿神社は、漁の守り神である事代主命(ことしろぬしのみこと)をお祀りしている小さな神社です。この神社の鳥居は、マッコウクジラの顎骨でできた「鯨骨鳥居」です。以前は、セミクジラの顎の骨だったそうです。くじらの町太地らしさがうかがえます。(2006.10.9)
情報提供:市民の力わかやま
太地町は国道42号線を太地町案内標識に従って海側に曲がるとすぐです。太地町全体がバイウェイ(寄り道)スポットになっています。
太地町は1600年代初めから捕鯨を始めた鯨の町です。鯨とともに、町民みんなして生きてきました。豊漁の時は共に喜び、不漁の時は共に耐えてきた町です。孤児が出ても昔から全町民で支えてきました。このように互助の精神と仕組みが今も生き続けている素晴らしい町です。太地町の旧い町並みが白く明るいのは、安心できるコミュニティが確立され、それが生き続けているからではないでしょうか。(2006.6.13)

太地捕鯨史ツアーマップ 大きい地図(pdfファイル)はここをクリック
情報提供:わかやまインターネット市民塾
日本風景街道 熊野 〜シーニックバイウェイ紀南〜このホームページは、紀南の地域を愛する団体によって運営されています。運営団体について |